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【わたしの告白】No.1
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皆さんにご報告があります。
いやー、あらたまって報告することでもないかもしれませんが、実は私、昨年の夏前に主人と話し合った結果、別々の道を歩むことになりました。
びっくりですよね。今までご報告できずに、本当にごめんなさい。
18歳から今までずっと一緒にいた私たちですが、授かり結婚でしたので、まだ何も準備ができないまま家族になることを決意しました。
その頃の心情は「一緒にいたい」気持ちよりも先に「早くいい親にならなくちゃ」という責任感や罪悪感にも似た気持ちが勝っていたのでしょう...
私たち夫婦は、いつしか「手も繋げない」夫婦になっていきました。
それが辛かったわけでも、悲しかったわけでもありません。18歳で結婚した私からしたら、そんな夫婦関係に何の違和感も抱くことなく、むしろフルタイムの私を一生懸命に支えてくれた主人に「感謝」の気持ちしかありませんでした。
そんな時期が続き、ある時期突然ですが、話し合いが始まりました。
その1番のきっかけは、流産でした。...もう、皆さんのご想像の通りでしょう。
流産に加え、娘が小学校にあがると同時に「大きな役目を終えた...」そんな完全燃焼のような気持ちになった私は、必然的に「友人に戻ってお互いの幸せを優先する」そんな結論に至ったわけです。それはそれは、たくさんの話し合いが繰り返されました。
やっぱり1番は娘のことです。
「親の幸せ」なんかより「娘の幸せ」を考えたら、別れなんて選ぶべきではなかったと、そんなことは痛いほど理解していました。
でも、不思議ですね。ずっと欲しかった第2子を流産した時に、「これからも、この人と頑張ろう!」という前向きな気持ちが、ぱっと途絶えてしまったんです。
...あぁ、情けない、親なら頑張るべきでした。でも私がまだまだ妻として未熟なだけに、手も繋げない夫婦関係の未来に耐えられなくなり、欲望のままに「1人の女性としてもっと愛されたい」と願ってしまいました。
この気持ちを打ち明けた時、本当に主人は辛かったと思います。彼なりの愛情表現でいつもまっすぐに支えてくれていたんですから。
私は当時、心の真ん中がぽっかり空いたまま、埋められずにいました。
仕事もあって仲間もいて、幸せなことは他にもたくさんあったのに、何故か「女性として愛されない、子供も産めない。主人に支えてもらわなければ家事すらままならない」そんな自分が酷くまぬけに思えて、許せない気持ちにさいなまれました。
変わりたかったんですね...
仕事だけが私のすべてではなかったんです。
もっと娘と過ごす時間も夫婦の時間も楽しみたかった。普通の「幸せ」が欲しかったんです。
いつだって人は「ないものでねだり」です。
私は主人に「最後のワガママ」を聞いてもらいました。そして、決意したんです。
「この子の母親として、今度こそは強くなりたい」「今度こそは愛されたい」ってね。
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【私の告白】No.2
「子供を産んだ人にしか、子供を産んだ人の気持ちは分からない」とはよく言ったもので、「離婚した人にしか、離婚した人の気持ちは分からない」というのは、本当でした。
ずっと疑問でした。
本当に「別れは不幸なんだろうか」って。
18歳で彼に出逢った当時、私達には仕事も家もお金もありませんでした。
私は妊娠して東京での就職内定が取り消しになり、彼は仕事がうまくいかず無職の時期。実家の名古屋を離れた私に対し、彼はその時実家暮らしでした。お金の面でも、妊娠・出産費用のことを考えると微塵の余裕もなく、結局彼の実家でお世話になることになりました。
その時期が、私にとっては一番過酷な日々でした。
公務員だった彼の両親はとても厳格で、彼が自分より13歳も年下の女性を連れてきて、しかも「妊娠」していて「結婚」するだなんて...。そのうえ、お金も家も職もないから「一緒に住まわせてくれ」だなんて...。 一体、どこのドラ息子が言う言葉でしょうか。
でも、私がその時一番辛かったのは、彼のお母さんの涙でしたね...
ぽろぽろ、ぽろぽろ。何故か、私の目を見て泣くのです。
「本当に、産むの?」と聞かれた瞬間を、今でも鮮明に覚えています。いえ、忘れられないのです。
私はその時、初めて知りました。
「望まれない妊娠」も、あるんだってこと。
若気の至りでしょうか。 こんな出逢いで、こんなきっかけだったとしても、妊娠は喜ばれるものだと心のどこかで信じていました。命が生まれることは、誰もが喜んでくれる幸せなことだと、私は強く信じていました。
でも、現実はそんなに甘くありませんでした。
彼のお母さんがなんで泣いていたのかは、今でもすべては理解できません。でも、きっと、この先の息子の苦労が目に見えるようで辛かったのでしょう...
私も、自分が母になった今だから分かります。 お母さんというものは、やっぱり我が子の幸せを一番に願うものです。
その涙を見て、私は「この子を守ってあげられるのは、私だけだ」と、まだ膨らんでもいない我が子が宿った腹部をぎゅっと抱きしめて誓いました。
当時の私に、迷いはありませんでした。
それから私は彼のために、里帰り出産を選ばず、たったひとり東京の病院で娘を出産します。
それは、実家の両親に迷惑をかけたくなかったのと、生後1ヶ月東京に戻ってこられないのは彼のためにならないと思ったからです。娘が生後1ヶ月の赤ちゃんの時に、彼にはそばにいさせてあげたい。私は10ヶ月も早く「お母さん」になったけど、彼はまだまだ気持ちの準備ができていませんでした。
私には、身近に親も友人もいませんでした。この子を守り育てるには、彼に頼り協力し合うしかなかったのです。彼の協力なくして、この子を育てることはできませんでした。
紙おむつも粉ミルクも高くて買えなかったので、できる限り布おむつを使い、毎日20枚近くのおむつを手洗いしては、泣きわめく娘のおむつ替えに追われる日々。完全母乳で育てることを目標に、できるだけ粉ミルクは使用しませんでしたね。
認可保育園は当たらず、仕事復帰するのに8万もする認可外保育所に預けながら、産後3ヶ月目には社会復帰。仕事中に胸が張るので、その度に職場の更衣室でこっそり搾乳機で母乳を絞っては、搾乳袋を冷凍しお迎えの時に保育園に預け、それを毎日...繰り返しながら生きていました。
ある日の朝方、泣き止まない娘を抱いてあやしていたら、お隣さんから「虐待していませんか」とクレームを言われたこともありました。
なんてことを言う人がいるのでしょうか....
その時思ったんですよね。若くして産んだというだけで、非難されることもある。 世の中は本当に厳しい。一生懸命私なりに頑張っていても、世の中は簡単には認めてくれない。
好きな仕事にも就けない、安い保育園にも預けられない、子育てを手伝ってくれる親も友人もそばにいない。
今思うと悲観的だったな、と分かるけれど、当時の私は必死すぎて周りが見えていなかったんですね。
彼にも、娘にも、優しく「ほほえむ」余裕すらなかったんです。
だけどね。当時、辛いことと同じ数だけ、いや、それ以上に。 幸せなことだって、たくさんありました。
娘は風邪一つひかない丈夫な子に育って、人見知り一つしないたくましい子です。そのたくましさに、私は何度も救われました。娘は私にとって、特別な存在だったのです。未熟な私を「お母さん」にしてくれたんです。
つづく...
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